苦いくちびるにごはんつぶ

衣食住の優しさ、苦しさ、それに魔法をかけること

ずっとほんのり正義について考えている

「ウカ、食べることは悪いことじゃないんだよ!」
先日、友達にこれを言われた。それだけのことなのに、天地がひっくりかえるような思いがした。目からウロコとはこのことだ。たとえばわたしがコメディ映画の主人公だったら、椅子からひっくり返ったり、美人の目の前でコーヒーを吹き出したり、ピザを床に落としたりしていただろう。

断っておくが、わたしは彼女に肯定されて嬉しかったという話をしているのではない。もちろんうれしいけれど、価値観の話がしたいのだ。わたしは自分が、「食べることを悪いことだと思っている」ということにすら気づいていなかったということ。わたしにとって食べることは悪で、それはほんとうにあまりにも強固なマンションの骨組みのようなものだったので、わざわざ考えることすらできていなかったということなのだ。「食べることがほんとうに悪なのか」、と疑うことすらしてこなかった。
それに気づいて、わたしは椅子からひっくり返って美人にコーヒーを吹き出してピザを床に落とすことになった。

認識の枠を出る、ということはすごくむずかしい。世界のほうは変わってくれないから、まどろんでいる場合ではないのだ。世界は世界のままでそこにあるから、わたしたちが目玉をぐるぐる動かして、知覚に翼を生やして、世界を俯瞰的に見るために動かなくてはいけない。ミクロからマクロへの移動は、とっても簡単なことなのに、簡単すぎるゆえに、むずかしく考え込むのが得意な脳にとっては、絶望的にむずかしい。

けれどそんなにむずかしいことをして、どうしてここから出たいのか。それは信念がそのまま身体のしくみになってしまうからだ。つまり、わたしは食べることと「太ること」をイコールで結んでいる。ついでに「胃が痛くなること」も。わたしはこの方程式を家の基礎に仕込んで、その上にこの肉体を建設してしまったので、ほんとうに少し食べるだけで太るし、胃が痛くなる。食べたことをかならず後悔し、かならず「食べることは悪なんだ」と確信を深める。

なんて痛ましい物語でしょう、でもこれと同じことが、大なり小なり誰にも起こっているはず。誰でも知らず知らずのうちに、信念を抱えて生きているから。わたしはそれをぜんぶまとめて「そのひとの正義」と呼んでいる。

わたしは正義についてずっとほんのり考えては箸休めをし、気づけばまたずっとほんのり正義のことを想っている。正義には、ほんとうに歯が立たない。自分の正義を曲げる苦労はもちろんだが、(わたしの正義は、前述の食べる=悪という信念のこと。長い付き合いになりそうだ)他人の正義に頭から直面したときにはほんとうに気が滅入る。銀座とか表参道のお洒落なデカいビルの窓ガラスに、そこにあるとわからずごつんと突っ込んで行くような感じ。金魚が水槽のふちに出会って口をぱくぱく言わせているのを眺めているときの、親しくて深い絶望。

はっきり言おう。わたしは自分の正義を確認するのも、他人の正義に出会うのも、すごくにがてだ。たぶん、きらいだ。だからこんなに内省的になって余計に苦しむのだと思う。だからこんなに、人と折り合いをつけるのにものすごく時間をかけるのだと思う。

けれど、他人とわたしの正義のすれ違いを観察することはすごく好きだ。さっき言ったこととの違いがわかりますか? 一度あなたの正義に出会って、咀嚼して、がんばって受け入れれば、そのあとのそれぞれのことばの誤訳がほんとうに愛おしくなるのだ。わたしは人間が分かり合えないという点で人間をすごく愛している。正義を愛している。なかなか考えを曲げられないこと、自分に囚われて人を妬んでしまうことは、人間らしくて美しいと思う。ただそこに行くまでに、人の何倍も時間がかかってしまうだけ。

最近このことばかりを考えている。自分の身体とわたしのディスコミュニケーション、あなたとわたしのディスコミュニケーション。これをテーマにあなたと、わたし自身と関わっていきたいな。たぶん、ステーキを平らげるくらいの大仕事になるだろうけど。